top of page

プロフィール

D75_4583-103.jpg

福岡県出身 県立育徳館(旧小笠原藩藩校)卒
中学・高校 バスケットボール部(主将) 
早稲田大学卒 中国拳法 全日本空手道連盟 眞空会
宅地建物取引士 公認不動産コンサルティングマスター 賃貸不動産経営管理士

中村天風財団 認定講師

​​ツバメの巣研究所 所長

趣味:読書 旅行 武道(実践空手三段)マリンスポーツ(ヨット)

略歴

1989(平成元年)

​学生時に起業

地元社会貢献と慈善活動に携わるべく社会起業家を目指し起業する。

1992年 

社団法人行橋青年会議所に入会し、一市四町の広域活動を目指すため「名称変更委員会」の委員として地元の歴史を調査。古事記に「美夜古(みやこ)」という文字が使用されていたことを発見し、「美夜古」という名称を提唱。その後、日本青年会議所に認定され、(社)美夜古青年会議所へと名称変更が実現。

1994年 11月

青年会議所世界大会in神戸に美夜古青年会議所の実行部隊として参加 地元独特の“角打ち”文化を英語で紹介するオリジナルノベルティー「ふんどし」を企画・開発。三和酒類株式会社様に協賛を依頼し、快くご協力いただいた結果、「いいちこ」ミニボトル数百本を提供いただく。このオリジナルノベルティーと「いいちこ」ミニボトルは、海外のJCメンバーから大変好評を博し、ブース出展開始後わずか40分で完売するほどの人気ぶり。

スコットランド民族衣装のメンバーへ日本の角打ちスタイルを紹介し、お互い桝でお酒を楽しむ体験を通じて文化交流を深める。

青年会議所入会

青年会議所活動

1995年 1月15日

阪神淡路大震災

阪神淡路大震災により神戸が大きな被害を受けた際、いち早く地元JC内で先遣ボランティア隊を提唱。初のボランティア部隊結成。九州ブロック内最初のJCボランティア先遣部隊として神戸の地へ。始発のローカル線で出発し、13時間立ちっぱなしで現地入り。

 

現地では高速道路の橋脚が目の前で倒れる光景や、12階建てのマンションが3階の高さに崩れ落ちている様子に衝撃を受ける。ボランティア活動中2~3時間の睡眠。砂ぼこりが舞う中6,000名以上の被災者に支援物資を配布。

 

当時は今ほどボランティア活動が盛んではなく、数十名のメンバーで多くの被災者に対応。あまりの多忙さに、休憩やトイレに行く時間もなかった。

全国から送られてきた支援物資に同封されている手紙をかき集め行政に届ける。全国からの熱いメッセージや、苦しい避難生活を強いられ、砂ぼこりまみれの被災者からの「ありがとう!」の言葉に何度も目頭が熱くなった。これらの体験は、いまだに鮮明な記憶として残る。

1998年 

インターネットの可能性に魅了され、1998年に単身でカリフォルニアへ渡米。現地のネットベンチャーとの交渉を経て、日本でジョイント事業を立ち上げ、その成果が専門誌に取り上げられる。

 

当時、地方ではインターネットに関する情報はほとんどなく、ベンチャーキャピタルや銀行も現在とは異なり、ネットビジネスに対する情報や支援は皆無。

米国とは異なり、日本での早期ネット事業の立ち上げは資金繰りが非常に困難で、やむなく撤退を決断。当時の月の残業時間は月に400時間を超え、それを1年以上継続。自身でもその忍耐力に感心。

ベンチャー事業

2002年 1月~12月

2002年、日本青年会議所コンサルティング第25代部会長に就任。日本JCの業種別部会長として、メンバーに一生に一度の貴重な経験を提供する事業を計画。

第一回定例会 ディズニーランドの特別会員向けサロンでの例会を予定したが、諸事情により開催を断念。代案としUSJ本社の会議室を貸し切り、講演勉強会と例会を開催。先輩諸氏のご協力のもと、盛大に開催。

第二回定例会 宇宙物理学者でNASA客員研究員の佐治晴夫先生を特別講師として招く。佐治先生はスティーブン・スピルバーグ監督の映画を監修されており、壮大な宇宙の物語や探査船ボイジャーの打ち上げ秘話について感銘。地球、月、太陽の音を初めて聞かせていただき、その感動は今も鮮明に。

ホテルのチャペルを貸し切った講演会では、佐治先生自らがパイプオルガンを演奏。宇宙探査船ボイジャーになぜアベマリアの曲を搭載したかの秘話を語られる。先生発明の「ゆらぎ理論」やビデオデッキのVHSとベータとの激しい開発秘話を愛車のポルシェ911カレラ4の中で特別に拝聴できた。NASAが地球外生命体とコンタクトを取った際に応対する日本人という役割について知った時は驚愕そのもの。ご縁に感謝。

第三回定例会 2001年9.11テロの後、日本における米軍基地の状況を学習するため、浦添JCの先輩方の協力のもと嘉手納基地へ特別に入ることができた。基地内の将校クラブで家族例会を開催。

基地内は完全にアメリカ。ドルが日常的に使われ、法律もアメリカの州法。

入基地には事前にメンバーのパスポートコピーを提出。専用バスをチャーターし基地入り。F15戦闘機格納庫エリアにあるイエローラインから一歩も中に入ってはいけないという厳しい注意を受ける。ラインを一歩でも越えると容赦なく撃たれる。参加メンバーにはラインに冗談でも近づかないように厳重に指示。

世界を知るために世界青年会議所第15回国際アカデミーに参加。

世界中から集まった次世代のリーダーたちと1週間の研修合宿。同室者は南米ボリビアから40時間かけて来日した若きリーダー。南アフリカのリーダーが問題提起した内容。国の地域の殺人件数を下げるにはどうすればよいかという深刻な社会問題に対し、言葉を失うほどの衝撃を受ける。

青年会議所時代、日本各地の多くの人々と出会い、様々な刺激を受け、大きく成長する機会を頂く。活動を通じ、地域づくりや街づくりのボランティア活動の重要性とその限界を学ぶ。

25代部会長時代

2006年

青年部(YEG)活動

2006年、地元の若手経営者を育成する目的で、商工会議所に青年部(YEG)を立ち上げ。苅田商工会議所青年部の設立チャーターメンバー。

ゼロから青年部組織を立ち上げ。

 

会長職は通常1年任期。

第3代、4代、6代、7代、8代と通算5年間の会長職を歴任。

会長職時代、日本一長い商工会議所会頭職を務める三原会頭の薫陶を受け、学生時代から事業家、篤志家としての生き様など、貴重な体験談を直接伺い多くを学ぶ。“不思議なご縁”に感謝。
 

2009年 

東九州自動車道早期開通決起大会in宮崎に福岡県代表として参加。1,000名を越える聴衆の前で高速道路実現への演説を行う。当時、宮崎県知事の東国原英夫知事から握手と感謝の言葉をいただく。

2010年~2012年

苅田町で初めて観光事業として「産業観光」を提唱。行政との連携を模索し活動。その活動が苅田町の観光協会設立へ繋がる。町内初の観光マップおよびグルメマップを作成。

青年部総会では、地元首長や議長、主要企業の工場長・所長を来賓として参加して頂いた。異業種大手7社の工場長・所長が参加する懇親会は大変貴重な経験。青年部会長時代の通算5年間の実践的経験とノウハウは貴重。

観光のあり方を学ぶため、日本商工会議所篠原常務、JR東海須田相談役を講師に招いて勉強会を実施。

地方の人口3万4千人の町の商工会議所青年部の勉強会に、ご多忙の中、東京及び名古屋から来ていただけた不思議なご縁に感謝。

三原会頭の力添えで、当時全国知事会会長であり、名知事として名高い麻生渡福岡県知事の公邸を苅田商工会議所青年部メンバーだけで訪問。

知事の講話を聴きながらの会食は、青年部メンバーにとって大変貴重な経験。知事がフランスのサルコジ大統領と直接対話した内容についての講評はとても興味深く、内容はここには書けない。“不思議なご縁”に感謝。

町の将来を考え、観光業の重要性を提唱企業城下町である地元の特性を活かし、産業観光のあり方を調査研究。

 

調査の過程で、日産自動車の起源が北九州市戸畑区であることが判明。創業者鮎川義介氏の手書きの手帳が保管されている貴重な資料館を町内で発見。その手帳から、鮎川氏の几帳面さ、学ぼうとする意欲の力強さが伝わってきた。明治から昭和にかけての日本のものづくり努力とチャレンジ精神の素晴らしさを実感。

資料館の骨組みの鉄骨はアメリカのカーネギー社製。それを証明する記名されている柱が現存。当時の日本では強度のある鉄骨が作れずアメリカから直接輸入したことを知り驚き。当時の日本と米国との技術さを知るエピソード。

奄美大島豪雨被害

12月に支援チャリティー基金活動として餅つき大会を開催。福岡銀行、西日本シティ銀行、北九州銀行、福岡ひびき信用金庫の皆様も日曜日にもかかわらず、大勢の方々が参加してサポートして頂く。

集まった義援金は奄美大島商工会議所青年部へ寄贈。

苅田みなと祭り大会実行委員長に就任。実働部隊として初めて活動。県道25号線広域産業道路の整備開通で開催が不可能とされた港まつり。

メンバーの一致団結した力と熱意で、奇跡的に復活させた。

食の祭典を開催し、東日本大震災の震災孤児支援チャリティー募金を開始。ゲストとして彦摩呂さんを招き、一緒に募金活動を行う。震災孤児支援チャリティー募金は、東北あしなが育英会へ全額寄付。

日本経済新聞社様の協力により、“「記憶」2011.3.11 PM2:46 忘れてはいけないこと”の写真データの無償提供を受け、東日本大震災「記憶」の大写真パネル展を開催。

翌年、県道25号線広域産業道路の交通量増大により、花火大会の開催は警察行政のハードルで不可能。ここでも青年部メンバーの一致団結した力と情熱で、様々な困難を乗り越え、警察行政と粘り強く何度も交渉を重ね、花火大会を実現させる。

花火大会では“がんばろう日本!”のスローガンのもと、大型1尺玉(10号)60連発打ち上げを実施し、見たことも無い大きな連続花火で町内外で大きな話題となる。町内人口(3万4千人)の半分近くに相当する観客を動員し、周辺の観客も含めると3万人以上が訪れた。

 

花火大会でも震災孤児支援チャリティー募金を行い、東北あしなが育英会へ全額寄付。
 

第六代会長

第七代会長~直前会長

2011年東日本大震災

2007年 11月16日

自動車産業つながりの町として、トヨタ自動車のお膝元である愛知県豊田市の豊田商工会議所青年部と姉妹提携を結ぶ。 友好関係を後輩諸氏に引き継ぐ。

現在も友好関係は継続。

2012年 花火大会

2015年

天然アナツバメの巣との不思議なご縁

私の人生において、インドネシアのカリマンタン島との出会いは全く予想外のも。この広大な島は、総面積615,326㎢と日本列島の総面積378,000㎢よりも大きく、オランウータンの生息地としても有名。

カリマンタン島でアナツバメの巣を取り扱う華僑グループ、トーマス家との出会いはまさにドラマのような驚きの連続。

トーマス家のビジネスは、高級コーヒーのルコピアコーヒー農園の経営を始めとして、パームヤシ油、両替商、アナツバメの巣と多岐にわたる。また人脈ネットワークは政治家、軍の将軍、警察の署長と有力者だらけ。

 

食用ツバメの巣を日本へ輸入する事で、厚生労働省福岡検疫所食品監視課へ相談。

結論から言うと、日本へ輸入するには、食の安全のため現地調査が必要。

72時間かけて赤道直下(北緯0度)カリマンタン島に降り立つ。秘密のベールに包まれたアナツバメの巣の営巣地へと向かう。

 

その場所は武装した軍がパトロールを行い、部外者は絶対に立ち入ることができない厳重なエリア。そこで、産地から日本へ直送できる初めてのルートを構築。

2015年 秋

2015年秋、東京ビッグサイトで開催された食品開発展に天然アナツバメの巣を日本で初めて出品。

 

日本の方々の天然アナツバメの巣に対する認知度の低さに驚かされました。多くの人々がアナツバメの巣について話に聞いたことはある。しかし、見たことも食べたことも無い。そして、巣の存在は知っていても、その情報は作り話や先入観に基づいており、正しい情報が全く伝わっていないことに愕然。

 

専門紙である「健康産業新聞」の記者ですら、天然アナツバメの情報を都市伝説の域を超えていないと思われました。そこで、私は記者に正しい情報を提供し、天然アナツバメの巣に関する正しい情報を伝える事でアナツバメの巣に関する記事に協力。

​​​​このままでは、天然アナツバメの巣に関する誤った情報が都市伝説のように語られ続けることを危惧し、ツバメの巣研究所を立ち上げ。

 

海外の論文を検索し、正しい情報発信を行っていく。こちらの情報を無断転用している疑いのあるサイトが判明し、情報発信を一時的に中止。

その後、天然アナツバメの巣の正しい情報が広まることが日本の皆さんの役に立つと考え、情報発信を再開。

日本で最も天然アナツバメの巣の現地調査を行ったという自負を持ち、この貴重な自然の恵みについて正確な情報を提供。

 

​​

食用ツバメの巣は、日本人は聞いたことはあるが見たことも食べた事もない方がほとんど。日本人に馴染みの薄いツバメの巣の効能効果を損なわず、どのように提供できるかと悩み試行錯誤。4年半を費やし、誰もが手軽に食べれるツバメの巣濃縮エキス入りスティックゼリーを開発。

HESTIAPブランドロゴは、DiorやHERMESなどのデザインを手掛ける若手フランスの女性デザイナーへ趣旨目的をしっかり伝える事で快く了承して頂き作成。このデザイナーとの出会いも、不思議なご縁に導かれたもの。

都市伝説と秘密のベール

bottom of page